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ドロップアウト。。。

2007年09月11日

今日は、ロバート・ハリスさんの「ワイルドサイドを歩け」(講談社 1999)より
文章を引用させていただこうと思います。

この本は何年か前に古本屋で表紙が気に入って購入した本で、
当時一度だけ読んでからはずっと本棚に仕舞われていたんですが
今日なんとなく手に取り開くと「ドロップアウト」という章でした。

まるで私のことではないですか!
と思い読んでみたのですが皆様にもお読みいただけたらという気持ちで
作者の方には申し訳ないのですが一章丸ごと引用させていただきます。

なかなかのエッセー集なんで、気に入ったら買ってみて下さい!


「ワイルドサイドを歩け Walk on the wild side」
               ロバート・ハリス著 1999年 講談社

『ドロップアウト』(p.58-p.63)

 ある雑誌に「ドロップアウト」というタイトルの連載を始めた。社会の敷いたレールから脱線して、自分の道を行くというのはどういうことなのか、これを検証する企画だった。
 女のヌードばかり撮った、若い男のマスターベーション用の雑誌だったが、どうせやるならこのような雑誌のほうが、小洒落たファッション誌よりも面白いと思ったので引き受けたのだ。きっと編集者のほうも、今の若い奴らにとってはタイムリーなトピックだと考えたのだろう。
 タイムリーかどうかはわからないが、僕が今の日本の若者だったら、とうの昔にドロップアウトしていると思う。管理的な教育システム、確立されたライフスタイル、画一的な価値観。僕が日本を飛び出した七十年代初期の頃と比べても、この国はずっと窮屈なところになっている。最近の不況によって、この世界に亀裂が入ってきてはいるものの、オルタナティブな道は切り開かれていない。こんな世界で、よく若い奴らは暴動も起こさないでいられるな、と僕は思う。みんな、窒息しそうになりながら、何とかサバイバルしているんだろうか。
 そんなわけで、仕事にしろ、ライフスタイルにしろ、他に選択肢はないのか、そしてもうすでに脱線した奴らはどんな人生を歩んでいるのか、そんなことを探っていこうというのがこの企画の主旨だったのだが、面白いことに連載三回目が掲載されたところで、雑誌社そのものが潰れてしまった。
 「イヤー、『ドロップアウト』、いいですね」と連載を気に入ってくれていた副編集長自身、ドロップアウトさせられてしまったのだ。
 でも、この企画のおかげで、いろいろな脱線者たちと話をすることができたし、僕自身、ドロップアウトというコンセプトについて、改めて考えさせられた。
 ドロップアウトという言葉そのものは六十年代のヒッピー文化が生み出したスラングだ。 "DROP OUT. GET HIGH AND TUNE IN." ——このフレーズは当時、シュプレヒコールのように使われていた。
 DROP OUT——つまり戦後の実利至上主義的な社会深みのないスクエアな考え方、保守的な生き方から脱却して、GET HIGH——ドラッグでもセックスでもロックンロールでもいいから、とにかくハイになって、TUNE IN——宇宙的な意識に波長を合わせよう・・・・・こんな趣旨を歌ったフレーズである。
 そして実際に学校や仕事をやめて旅に出たり、コミューンに入ったり、自然の中で自給自足の生活を始めたり、アーシュラムや禅寺に入って悟りを追い求めたり、または社会の枠のぎりぎりのところで、イマジネーションとサバイバル能力だけで、自分にあったライフスタイルを確立していこうとする奴らが多かった。
 この日本でさえ、当時は何をやっても何とかやっていける、そんなムードが漂っていた。僕も大学を卒業し、一週間サラリーマンをやったあと、ドロップアウトして長い放浪の旅に出たのだが、まわりには同じような奴がたくさんいたので、勇気づけられた。
 今はどうなのだろう。昔のような、社会は向こう側、その社会の価値観をすべて否定したものがこちら側にいる、というような青臭い考え方はなくなったと思うが、僕の知っている限り、かなりの数の人間が社会の型にはまらない人生を歩んでいる。
 もちろん、タイプもいろいろである。僕の最初のワイフのように、オーストラリアの山奥で、昔のヒッピーそのままの、自給自足の生活をしている者もいれば、日本の広告代理店をやめて、バリ島で自分のデザインした服を自分の店で売っている元OLもいる。俺はドロップアウトしたんだとはっきり宣言する者もいれば、僕はたまたま好きなことをやっているうちに、ここにこうしているんです、ドロップアウトしたとは思っていません、という奴もいる。
 僕自身、日本を飛び出した後の二年間、東南アジア、バリ島、オーストラリアとさまよっていたので、その期間は確かに社会の枠の外で生きていたかもしれないけれど、シドニーに落ち着いた後は書店で働いたり、セラピストをやったり、書店と画廊を経営したり、テレビ局や映画の製作会社で働いたりと、決して純粋なアウトサイダーとしての道は歩んでいない。
 日本に帰ってからもそうだ。一年間、失業していた時以外は、ラジオのDJとして、そして最近ではもの書きとして、社会の中で、自分なりにサバイブしている。でも気持ちだけは今でも、レールに乗っているとは、まったく思っていない。自分のペースで、自分の好きなように勝負していると思っている。
 なら、レールに乗っている人間とそうでない人間の違いは何かと言うと、それはひとえに、自分の発想を持っているかいないか、これだけだと思う。
 不安だから、仕方がないから、これしか選択肢がないからと思いつつ、社会が作り上げたシナリオに従って生きている人間と、自分のやりたいことを自分のスタイルでやっていく、この夢を追いながら、自分自身のシナリオを作っている人間・・・・・・やっていること自体は同じかもしれないし、どちらもそれなりに苦労したり、頑張ってもいるだろうけれど、気持ちの持ち方はまったく違うと思う。
 社会が作り上げた、理想的なシナリオなんてものはもうないのだ。レールの先には、ハッピーエンドもなければ、ヒーロー像もない。この社会の価値観というものは、物理的、経済的な成長を成し遂げた時点で、崩壊しているのだ。これから先は、いかに人間一人ひとりが、個としての幸せや責任というものを考え、自己の確立へと向かっていくか、この点だと思う。
 ドロップアウトするということは、つまり自分が何を欲し、どんな生き方うぃしていきたいのか、そのことをじっくりと考え、その方向へ向かって一歩踏み出していくことだ。
 このことがわからないうちに、ただつまらないから、楽しくないからと言って仕事をやめたり、旅に出ても、大した成果は得られないし、決して自己の解放へとはつながらないと思う。
 まずは自分がこの人生で何をしたいのか、どんな生き方が自分に合ったものなのか、そこのところをじっくりと考えるべきだと思う。これがドロップアウトの第一段階なのだ。それから先の GET HIGH と TUNE IN は、一人ひとりが自分に合った方法で、実現していけばいいのだ。
 そんなことをその連載で思ったのだが、今の日本に、どれだけの若者がそこまで考える能力や実力を持っているのか、この点においては大きな不安を感じる。
 なぜなら、自分のことをピュアに、貪欲に考えるということほど、知性とエネルギーと教養が必要なことはないからだ。そして今の日本の教育システムには、そういったものを育成する意識がまったくないように思えるからだ。




以上、『ドロップアウト』を引用してみました。
私はこの文章を読んで感じること考えることが多々ありましたが、
皆様はいかがでしたでしょうか?

何かしらコメントを残していただけたら嬉しいです。


  


Posted by CATS HOUSE RECORDS at 00:05Comments(2)ミヤハラコウヘイ