善いか、悪いか

CATS HOUSE RECORDS

2008年04月22日 02:13

久々に更新します。

先日、暇つぶしにPRESIDENTという雑誌で連載されている
大前研一さんの記事を読んでいた時に思ったことを書きます。

その記事自体は彼が日本の教育について彼の主張をしているもので
ありがちな論調で「日本の教育を壊滅させた2つの元凶」について
語っているに過ぎないので特に新しい発見もなかったです。

そんな彼の論は、海外や過去を例にとって現代日本の教育を批判するもので
一読する限りは聞こえも良く、読者の共感もよびやすいものと思います。
私自身も記事に対して共感できる部分もありました。

しかし本日の本題はここからでして、彼は記事中で善いか、悪いか、
について議論しているのであります。今回の場合は現代日本の教育がその
対象となって、それについて善いか、悪いかを議論していらっしゃるのです。

例えば偏差値を重視した教育は悪い、何故なら○○だからである、と
このようにして論が展開されていくわけでございます。さらに具体的な例を
示しているので、彼の主張は、さぞ正しいことのように見受けられます。

けれども私は常々思ってきたのでございますが、善いか、悪いかというのは
往々にして好みであるか、好みでないかというのと同様の意味合いを帯びて
使われていはしないでしょうか。善いか、悪いかは何を基準にして語られて
いるのでしょうか。多くの場合において基準は明確にされておらず、また
人々の間でその基準がコンセンサスを得られているとは感じられません。

つまり、善いか、悪いかという議論は十人十色の価値基準に従って下される
非常にパーソナルな議論であると思うのです。そして、そのような個人的な
ものであるにもかかわらず、この善い・悪いは如何にも社会的な価値である
様にして世間に流布されている現状があると思うわけでございます。

本来は個人的な好みであり、好まざるものであるはずのことが、善悪という
言葉にそれらが置き換えられることで、まるで社会的に正しいことと
正しくないことにすり替わり強大な力をもつに至るのです。

例えば、ゆとり教育は悪い、という表現は本来は発言者にとってゆとり教育が
好ましくないものであるに過ぎないにもかかわらず、多数の受け手にとって、
ゆとり教育とは社会的に正しくないことである、という意味合いを帯びます。

で、長々とまどろっこしく書いて参りましたが、私が申し上げたかったことは
万事において善いか、悪いかという議論は非常にパーソナルな議論であり、
どんな著名人が「善い」と言ったとしてもそれは当人の好みであるという、
ただそれだけのことに過ぎないということです。
決して、社会的に正しいものであるわけではなく、今回の大前さんの記事で
いえば、彼が善いということは彼の好むところであり、悪いということは、
好まざるところであるというだけのことです。

私は世の中に絶対的な「善い」、「悪い」は存在しないと思っています。
善いか、悪いかは価値基準に照らし合わせて語られるべきことで、また
その価値基準というものは絶対的なものは存在しないと考えるからです。



社会的に正しい、という表現は便宜上用いた表現です。

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