先月の記事で「善いか、悪いか」ということについて書きました。
実は書きたかったことは本日が本題でして、先日の記事はその前置きの様なものです。
ということで、本日はその書きたかったことについて書かせて頂きます。
書きたかったことは何かについて議論するときそれは「目的に適うか違うか」と
いう視点で行われるべきではないかということでございます。
十人十色が異なる価値基準をもつ中で、善いか、悪いかを言うことは
それは非常にパーソナルな議論であり、社会的に正しそうに見えるものの
実はそうではないという様な旨のことを先日の記事では書きました。
しかし世の中にあって、議論とは避けて通れないものでございまして
どうしても毎日の様に善いか、悪いかということを決めなければなりません。
そこで、善いか、悪いかの代わりに目的に適うか、違うかを議論しては
いかがでしょうか、というのが私が書きたかったことでございます。
目的という一つの明確な命題に関して、議論が対象とする事象がその目的に
適うのか違うのか。この様な議論は生産的であり、有用なものであるように
私は思うのです。善いか、悪いかの様な個人の価値指標に照らした基準を元に
議論をしてもそれは場においてチカラをもっている方の好みか好まざるものか
そのことが大きく反映された結論しかもたらさないのではないでしょうか。
例えば先日の大前研一さんの教育に関する主張にしても、教育の目的を明確に
した上で現状の教育について批評されることは読者にとって理解しやすく、
また非常に生産的な議論になりうると思うのです。
教育目的に適う現代日本の教育や、目的に違うそれというものがあるのでは
ないでしょうか。然れば教育目的を異にする海外の事例を安易に引用することも
なくなります。教育目的を異にする過去の日本の教育を讃えることも難しいでしょう。
彼の連載がエッセーであり続けるかぎりは、この様なことは無用でしょうが。。
閑話休題。
本日の記事で言いたかったことは、複数の指標によって行われる議論というものは
一つの指標に照らして行われる議論よりも難解なものであり、生産的な議論を
行いたい場合には「目的に適う、違う」などのように指標を明確に、そして
少なくすることによって行えうるのではないでしょうかということです。
目的を議論するのは、やっぱり難しい問題ではございますが・・・